2024年5月彼は31歳になりました
私の息子『R』
バブルが始まりバブルがはじけて
私は23歳で結婚
結婚から3年後
あんなに派手な時代が嘘のように
全く想像もしなかった私達の時代が始まった
結婚したら
時の流れで妊娠・出産
ふんわり流れて行くものだと思ってた
子供って難なく生まれてくるものだと思ってた
だけど
長男として生まれた息子は生まれた時から他の子と違っていた
あれから31年経って現在2024年色々状況は変わりました
私は夫と家庭内別居↓
それでもみんな誰も生まれたからには生きていくのみ
障害者はどう生きる?肢体不自由の障害を持つ息子
産育会堀病院
長男『R』誕生
瀬谷区 産育会堀病院
1993年5月26日 長男誕生
体重3226kg 身長51㎝
退院日に病室に呼ばれ
右足が内転しているのと股関節に異常があるとの事
初めての子だったし
言われるまで全く気づかなかった
4年後に娘が生まれて
二人目のオムツ替えで初めて
『赤ん坊って本当はこんなに体柔らかいのねー』って
違いを知ったくらい無知だった私
子供医療センターへ紹介状を持っていくように言われ退院
この頃はまだ治らない病気だとは知りもせず
障害者はどう生きる?肢体不自由の障害を持つ息子
神奈川県立こども医療センター
1993年7月 生後2ヶ月
神奈川県立こども医療センター 受診
最初の診断
右内反足 股関節開排制限
週1で腿の付け根から足までギブスで固定
ギブスなしで寝れるのは次のギブス変える前日のみ
毎週毎週子供医療センターまで
ギブス巻かれた息子抱え
バス乗り継いで病院まで通った
まだまだ生まれて2ヶ月過ぎの小さな体に
重たいギブス
家でタライにお湯を入れ
足温めながらギブスを溶かして外すのが
病院へ行く1日前
次の日にはまた医療センターで
ギブスでグルグル巻きになるので
身軽な足で寝れるのは週1だけ
湿気を取るためとかで
ギブスの上から新聞紙を巻いて
その上からさらにタオルを巻く
細く小さな足に巻かれる大きなギブス
そんなせいもあり?
夜泣きがひどかった息子
私も寝れない日が続き
子育てがこんなに大変だとは知らなかった
『早く大きくなってくれー』
あの頃はそれしか思えなかった
五体満足って奇跡
同じ頃
医療センターでいつも一緒になる私達より若い夫婦がいた
その夫婦の子も生後間もなく同じように足にギブスを巻きに来ていた
いつも同じ時間の頃一緒になり
ギブスを巻き始めると
その子がか細い声で泣き始め
それを見て若いお母さんも泣きだして
それを見て私もつられて泣いた
そんなことが長い期間続いた
自分の子に対しては必死だったからか
泣くとかそんな余裕もなかったのに
医療センターで
他の子の姿見るたび泣いていた
子供医療センターには
いろんな病気や障害を持った子供がたくさんいる
本当にこんなにいたの?ってくらいたくさんいるの
全く知らなかった世界
病気や障害と戦っている子供がこんなにいたなんて
初めは驚きしかなかった
ショックでしかなかった
自分の子も?
この世界で戦うの?
でも特殊な世界じゃないんだよね
五体満足で生まれる事の方が奇跡なのかも
症状と発達
5ヶ月過ぎた頃にはお座りができた
がこの頃から左足にも異変あり
10ヶ月 伝い歩きができた
ただそれ以降歩けるようになかなかならず
ハイハイで移動
ハイハイの際に手を開かず握ったままなので
指の皮が擦りむけている
手にも支障があるのではと不安は広がる
検査入院
1994年10月 1歳4ヶ月
MRI と筋電図検査の為の入院 (1週間)
1995年 2歳 入院 両足手術①
1995年 7月26日(2歳2ヶ月)手を離して
一人で歩けた*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)’・*:.。. .。
がよく転ぶ
足がしっかり上がらないので
転んで怪我することが多くなり
額を切ったり、頭を打って何度も病院に駆け込んだ
数え切れないくらい転んでは頭を打って
なんども痛い思いした
あんなに頭を打って
よくぞここまで生き抜いてくれた
生命力ってすごい
1995年
5月15日入院
5月16日手術
AM8時半〜PM1時半 (5時間)
右足 手術名→後内側解離
右足(先天性)
足の指に釘?3本とチューブさす※チューブは2日後抜く
6月14日(1ヶ月後)抜糸とくぎぬき ※釘が中に入り込んでたので切開2箇所縫う
左足 手術名→ アキレス腱後排 骨筋長母趾 長趾屈筋腱延長
左足(後天性)
アキレス腱後排 アキレスけんこうはい アキレス腱を半分にして伸ばす
骨筋長母趾 長趾屈筋腱延長 こっきんちょうぼし ちょうしくっきんけんえんちょう
なんだかよくわからないけど
足の5本の指が重なってしまい
それを治すため
親指の筋に釘のようなもの横ざし(焼き鳥のように?串刺し)
他4本の指も釘のようなもの横ざし
で重なりを平らに
5月30日(2週間後)左足抜糸
左足(後天性)
6月15日 ギブス巻きなおし
6月29日 ひざ下からのギブスに変わる
7月6日 ギブス外れ 寝る時用の足から膝までの装具装着
7月7日 リハビリ開始
1997年 4歳 検査入院
1997年 2月4日〜2月17日
筋生検
※上腕の皮膚を切開筋肉及び神経を切除して観察
20歳までに院内の多数の科にかかり
次から次へと悪いとこが見つかり
何度あの道のりを往復したことか
内科 整形外科(町田医師) 背骨科(奥住医師) 筋外来(山下医師) 神経内科 循環器科 皮膚科 リハビリテーション PT(岩島さん) OT(山崎さん)
本当に沢山の方にお世話になりました
障害者はどう生きる?肢体不自由の障害を持つ息子の記録
1999年2月 養護教育相談センター
1999年 4月 小学校入学
養護教育相談センターで相談
本人の為に普通の学校か養護学校か
どちらの学校ににするべきなのか?
普通学校に通わせたい気持ちと
出来ないことが多くなってる彼がつらい思いをするのではないか?
いじめに合わないか?などの心配から
養護学校へ通わせた方がいいのでは?と
結果
普通学校に行かせて
無理そうなら途中からでも養護学校に移そうと決めた
やってみるしかない
1999年 難病指定 ミオパチー
この頃障害手帳を作ることになり
診断名もミオパチーと知らされた
ミオパチーにもいろんなタイプがあるようで
息子はその中でも分類が難しいようだとしかわからず
とにかく今の医学では直すことの出来ない病気だとこの時ようやく理解した
小学校入学
① 手の握力も弱い
教科書の持ち運び 荷物を持つ事が難しい
教科書 その他全て2セット用意
学校に置かせてもらう分と
家の分と2倍で用意持ち帰らずに済むように
② 少しの段差でよく転ぶ
行き帰りの付き添いが必要
基本私が付きそい
行けない日は地域のボランティアの方にお願いした
※私はパート勤務
③ 衣服の着脱や排泄にも介助が必要
体育着などに着替える事はなしに
排泄は小ならなんとか自分でできる
(ズボンはウエストをゴムに手直し
チャックにリングをつけ上げ下げしやすいように)
※朝必ず大便を済ませる習慣をつけさせた
(とはいえままならず急に生きたくなる事もある)
腕も手も曲がって硬直しているため
自分ではお尻まで手が届かず
拭くのが難しい
しかもズボンを下まで下げてしまうと
その後ズボンを上に戻す力がない
(これが後々まで心配だった)
④ 体育で体を動かすのは無理
でも笛を吹くや審判をするなど
何か出来ることで参加させてもらえるように
直接先生にお願いに
とにかく考えられるあらゆることをお願いし
私も動ける範囲で動いてはいたが
何より
息子の事でクラスのみんなに迷惑がかからないか?
本人が孤立しないか?それが心配で
早くみんなに息子の体を知って欲しかった
障害を持つ人によっては知られたく無いと思う人もいるだろうし
人により考えは様々
息子自身も年代によって考えは変わっていると思う
私は一貫して息子の周りの方には
みんなに息子の体を知って欲しいと思ってる
障害者はどう生きる?肢体不自由の障害を持って生きる息子の記録
2005年 平成17年12月 12歳 入院 手術②
整形外科 ひざ下にねじれがあり手術が必要
左足→内反足首の手術 その際2度目の筋生検も
右足→薬指 中指に重なっていた為平らにする
麻酔科より
挿管困難 コーマック分類4度と言われる
※喉頭鏡にて正門を確認出来ない、あるいは気管チューブが進まないなどで
気管挿管が出来ない困難な状態
手術などで麻酔をする場合など補助物品がある病院で行うようにするなどの注意が必要
肢体不自由施設入所
12月20日手術
12歳になって6年生の息子は
こども医療センターの中の肢体不自由児施設へ
一時転校となる
ここは
四肢や体幹に変形、機能障害を持つ子が入所し
治療 リハビリを行いながら学校教育を受けられる施設
体のケア治療 リハビリもしながら勉強も教えてくれる
この年は施設内で年を越すことになった
本人は辛かっただろうけど
病院内で学校の勉強もできて
息子だけが特別じゃない環境で
本人も無理しすぎることもない
親としては安心な気持ちもあった
※寝ながら教室で勉強
感動の小学校卒業
卒業式近くまで入院していた息子
卒業式にはまだ完全に回復していなかったが
元いた小学校の卒業式に出席
ベッドのような車椅子で卒業式へ
体育館では歩行器に乗り替え参加
ヨチヨチ歩き状態での卒業式
通常なら壇上で卒業証書の受け渡しが行われるのでしょうが
この年の卒業式は
壇上には登らない形で卒業証書授与をしてくださいました
校長先生はとっても気さくで
子供達にいつも声かけしてくださり
熱心で素敵な方でした
卒業式には皆へ送る言葉として
ジョンレノンの『IMAJIN♫』の
歌の日本語訳を朗読してくださいました
深い意味の歌詞です
いろんな想いの詰まった卒業式で
歩行器で賞状をもらう息子の姿
6年間色々あり
みんなに支えられ
有り難く感謝の気持ちと嬉しい気持ち
でも今尚
病気と闘っている息子
この日ばかりは号泣の母でした
障害者はどう生きる?肢体不自由の障害を持って生きる息子の記録
さあ次へ
春休みが明けたら今度は中学入学
まだ手術後完全に歩ける状態ではない
そして思春期に入るお年頃の息子
まだまだ前途多難
目の前の1日をこなすのに精一杯
でも子育ての母はみんな心配が尽きないもの
そこは障害があろうとなかろうと変わらないのか?
とはいえ一人でできない事が多すぎる息子
中学はまた新しい友達も加わる
更にみんな思春期の子ども達
小学校の時のようにうまく馴染めるか
この後最も辛い思春期時代↓