障害者はどう生きる?肢体不自由の障害と共に生きる息子/中学〜大学

障害と共に生きる息子へ

生まれつき足が反転(内反足)であった息子

成長とともに他の箇所にも支障が見られ

中学までに子供医療センターにて入退院を繰り返した

病名

先天性ミオパチー 障害1級

ミオパチーもいくつも型があるそうだが

その中でも息子は特に珍しいと言われている

実際同じような症状の人を見たことがない

体の柔軟性がなくとにかく全部が硬い

腰も曲がりが悪いので座る事が困難

足全体も硬直しているから

歩くのが困難

車椅子に座ることもできず

腕も上がらず

洋服着脱は無理

日中はほとんど立ちっぱなし

疲れたら前かがみでうつ伏せか

壁に寄りかかる

トイレも座れないとは難しい

小学生まではなんとか軽く腰掛ける程度は出来ていたが

背骨が湾曲し

背骨固定の手術をしてから

ほとんど腰を曲げるのも不可能

以降今日まで

立ってるか寝てるかのどちらか

外食時も

キャンプ用に使うような小さいテーブルを持参

店のテーブルやカウンターにのせて

立ったまま食事

世間様には

そんな人を見かけてもどうか見て見ぬ振りでお願いしたい

せめてチラ見くらいでご勘弁を

ガン見は辛いよ!!

障害者はどう生きる?肢体不自由の障害と共に生きる息子のこれまで

中学時代

小学校をなんとか無事卒業できたものの

卒業目前にした術後から歩く事がままならず

自力で歩けるまでには相当な日数がかかった為

中学への登校も大回りのバスに乗り

私が付き添い登校

腰が曲がらないから

バスの中座ることはできない

腕が上がらないので

つり革にも掴まれない

それでも

私が運転免許を持っていないので

バスに乗っていくしか方法がなかった

最寄りのバス停で降り

学校までは5分とかからない距離だが

その道のりを牛歩のように1歩歩いては休みまた1歩

体に柔軟性があれば

おんぶでも何でもしてやりたいとこだが

棒のように固まって柔軟性のない息子を抱えることは難しい

今思えば無理してでも私が免許を取るべきだったのに

結局今の今までバスやらタクシーやら

そうやって過ごしてきてしまった

よく『障害のある子は選ばれた親の元に生まれてくる』とか言う人いるけど

こんな親の元に選ばれてきたの?

二重に試練与えられてないか?

H17年12月〜H18年4月14日入院手術医療センターにて

H18 /2/1手術より6週目

H18 /2/18左足ギプス→サンドイッチ型(挟むやつ)に変わる

左足の指3ほんの針?抜く

靴 装具型取り

H18 /3/2ギプス取れた

部屋にいるときのプラスチック装具装着

右足装具装着

薬指が中指の上に重なるので変形が戻らないようにバンドで固定

喘息もあり

喘息の薬飲む

左足ギプス巻き直し膝下のものに変わる(膝下アセモで痒いらしい)

小学6年の終わりから中学入学にかけ約4ヶ月の間

子供医療センターで手術 入院していた彼

お正月も病院で迎えた

卒業式も病院から一時帰宅で卒業式に向かい

中学入学後もまだまだ歩くのが大変

タイミングが悪かった

お年頃思春期のこの時代

この時期が一番彼にとっては辛い時期だったと思う

手術は背骨の固定

やる前から『術後の痛みが激しい』けど頑張って

なんて脅かされていたが

術後の彼は本当に可哀想でしかなかった

背骨なので仰向けに寝ることは勿論できず右か左か向いているのだが

術後の痛みもあり

右向いて数分すると『反対向きになりたい』と言う

けれど自分の力で動くことはできず

看護師を呼んで二人掛かりでシーツごと引っ張り反対向きにさせ

クッションを腰から下に当てる

そして数分後また『反対を向きたい』と言い

また看護師を呼んで

同じことの左右への繰り返し

どんな体勢になっても楽になれる時間なんてなかった

これを一日中繰り返す

その間何度も強い痛みがやってくる

と言うより痛みはずっと続いていて

あまりにも疲れすぎて

一瞬眠りに落ちては

またすぐ目が覚めて

痛くても耐えながら静かに涙流す息子

私達がしてやれることは何もなく

本当に切ない

ただただ時が早くたって

1日でも早く痛みから解放してほしいと願うだけ

あの時代には2度と戻りたくない

今どれだけ大変な事が起ころうと

あの頃の辛さ痛みをこすものがある?

ただ普通に生きているそれだけで

どんなに幸せなことか

H18/4/21

手術から約4ヶ月後

松葉杖や歩行器なしの独歩になる

中学生活

術後の歩くのもやっとな時期から中学入学

本人にとっては多感な時期でもあり

精神的にも辛い時代だった

制服のズボンの上げ下ろしも出来ない為

お手洗いには時間がかかるし

学校生活では移動教室も多く

慌てて次の教室へ行くのもままならない

荷物は誰かにお願いしなければいけない

一度はお弁当を巾着に入れたら

紐を縛ったわけではないのに

開けられなかったと

食べずに帰ってきたこともある

それくらい友達に頼めばやってくれなくも無いと思うが

変なプライドか?

この年齢特有のものなのか?

人に頼るのが嫌な年頃なのか?

我慢してやり過ごすのみだった

パンツや制服のズボンは色々工夫して

何とかトイレの小くらいは自分でできるようになっても

時にはだってしたくなることもあり

そんな時は学校から電話で

『急いで来て』の呼び出し

母は慌ててパート先から

学校の男子トイレに駆けつける

学校まで早くても20分はかかる

しかも急坂の上

『遅いよー』って言われてもねー

こっちだって焦りまくりですよ

そんなこんなで

とにかく学校生活の全てが彼には大変だった

私も大変だった

しばらくは私も学校に一緒に通い

休憩時間にトイレに連れて行ったり

移動教室にもついていく日々

できるだけ介助したが

それが同時に新しい環境で友達作りする機会を逃していたり

関わりづらくさせていたのも事実

仲の良かった友達も

誰もが新しい友達や仲間作りの段階で

母に世話を受けてる子とのコミュニケーションは難しいだろうし

息子も私が学校にいることを心よくは思っていなかったと思う

それでも世話してもらわなければいけないのだから彼も辛い

それでも私は

朝から学校に付き添い授業中も

ただただ息子のトイレ時間を待って

廊下で過ごしていた

そうしなければ学校生活を送れない我が子

やるしかない

いつも我慢強い息子

でも

入学何日目か

『もうダメかも学校やめて養護学校に移りたい』とこぼした

小学時代の友達も中学に入り

休み時間には新しい友達と外で遊ぶなどして

歩行器や歩くのが遅い息子から離れていくことも多く

いろんな意味で

孤独を感じていたのだと思う

それは仕方のないことだ

新しい環境で新しい仲間作りはみんなに必須だし

息子だけだなく

他の子たちも新しい生活に溶け込んでいかなければいけない時だから

酸素導入Cvap着用

中学後半くらいから呼吸筋力低下により

就寝時

酸素吸入とCVAPによる呼吸機を使うことになる

貧血

H19/9/26 血液再生医療科(子供医療センター内)

夏休み頃から顔色が青白くなり病院で調べたところ

鉄欠乏貧血のため即入院

血液の数値が相当悪くなっていた

この頃から貧血の薬も飲むようになる

原因わからず

H20/12/26 15歳

体重33・2キロ 身長146・1cm

この頃

とにかく筋肉が少なく腕も足も細い

理解してもらうために

中学時代は

小学校からの友達もたくさんいて

その点は安心だと初めは思っていた

息子のことを知ってくれている友達が

クラスに何人かいてくれるそれだけで安心度が違うと

それでも半数は他の学校の生徒もいるので

息子の体について話しておきたくて

彼の病気についての話を手紙にまとめ

先生に渡して

彼がいないところでクラスのみんなに読んでもらった

その内容についてみんながどう思ったかはわからない

でも

息子のような体は

どんな人なのか?

どう扱えばいいのか?

普通はわからないだろう

わからないと余計付き合いづらいだろう

と思い

聞きづらいことをこちらから

皆んなに知ってもらうだけでいいと思った

先生も色々手助けしてくださり

座れない息子のために

背の高いテーブルを学校側でいくつか用意してくれたり

配慮していただく事がいくつもあり

結果

初めは孤独を感じてたであろう彼は

ここでも3年間無事過ごす事ができた

障害があると周りの理解がないと生きていけない

支えがなければ本人の頑張りだけでは無理な事がたくさんある

特に学生の時代は障害を理解してもらう事が重要

高校時代

本人の成績ではギリギリ難しいだろうと言われてた高校に

無謀にも挑戦したらこれが見事合格!!

人生わからないもの

本当に親子共々びっくりで

さらに中学でお世話になった担任の教師

なんとその高校赴任してきて息子の副担になった

こんなことってある?

息子のこと知ってくれてる先生が高校にまたいるなんて

すごい奇跡としか言いようがない

そして3年間息子の担任をしてくださった先生は

高校入学前の見学の時にお話を伺った先生で

『もしこの高校に入学されたら私がクラス担当しますから』とおっしゃってくれてた

そして

本当にその先生が

3年間息子の担任として色々配慮してくださいました

人との出会いって不思議です

その点では息子は強運の持ち主かも

高校生活も色々心配なことはありましたが

先生 友達に恵まれ

ここでもまた障害がありながらも

3年間を無事過ごす事ができた

高校は家からだいぶ遠くなり

私の父が仕事前に車で

早い時間に高校まで彼を送り届けるのが日課となり

用務員さんよりも早い時間に学校に着き

1番乗りしていた息子

そのうちクラスの友達もだんだん早く登校するようになり

朝から自習している子たちが増えたそう

なんと素晴らしい生徒さんたちなの?

息子自身これには驚いていました

先生は

『彼がいる事でみんなも頑張らないとって気持ちが湧いてるの

彼がいてくれる事がみんなに良い影響を与えているんです』

って言ってくれた

涙が出るほどありがたい言葉

高校3年間もあっという間に過ぎる

卒業式には生徒代表として答辞を読んだ息子

感無量とはこの事

障害者はどう生きる?肢体不自由の障害と共に生きる息子のこれまで

大学時代

生まれてから人間て選択する事が多い

高校はどこに?大学は?もその一つ

その選択の一つ一つが次の人生につながると思うと大変重要

彼の場合

体のことも考えて近いところにした方がいいか?

障害のある子が通える学校か?とか

考えなければいけないことはたくさんあって

何で中学も高校も3年間なの?

入ったと思って慣れたらもう卒業で次の選択が必要になる

この頃には

すでに自分の意思がはっきりしていて

精神的にも強くなった彼は

『大変なことは承知の上で出来るとこまで普通に過ごしたい』

『命が短くなるとしても

みんなと同じように過ごし生きてると感じたい』と言っていた

体を考えると

通信にした方がいいのでは?

と言う担任の助言も耳には届かず

どこの大学でもいいから『大学生活を送りたい』と言った

とりあえず家から近い大学に

息子の体でも通えるか相談に行ったりしたが

高校の副担(元中学担任)から

推薦で行けそうな大学に立候補してみたらどうか?

と言われて

全く考えてもいなかった大学に急遽挑戦することに

その大学には

もう一人立候補した方がいて

その人の方が成績は上みたいとの噂で

『無理か』なんて諦めモードでいたら

結果

なんと見事合格🈴

大学の方針が今年から英語に力のある人になったとかで

たまたま息子は英検を持っていたのでその点だけで?

かどうかはわからないが

とにかく合格した

何でも取れる時期にとっておくもんだ

肢体不自由でも頭は使えるから

使えるとこ使えばいんだ!!

ギリギリで難しいと言われた高校合格

相当な驚きだったが

まさか大学まで行けるなんて

悪いことばかりじゃないよね人生は

子供医療センター卒業

20歳を過ぎると

子供医療センターは終わり

ここから病院との関わりに翻弄することに

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